THE PERFECT DOCUMENT by Thomas Min
ベルギーを拠点に活動するアーティスト、トーマス・ミン(Thomas Min)の作品集。ありふれた他愛もないものから美術的な文脈の中から生まれた既製品、果ては何らかの意図をもって作られた工芸品まで、思いつく限りのものはいつかどこかで記録として、あるいは芸術的な解釈として、写真で残されているはずである。「あらゆるものに第二の人生が与えられている」と考えること自体は素敵なことであり、安堵さえ感じる。しかし、我々の表現に対する強い執着を思い知らせるという点では、なんとも後味が悪い。写真が普及すると、ものは文脈や周囲の環境から引き離され、それ自体が表現の対象になった。この新しいメディアを最初に利用したのは彫刻家たちである。立体作品を平面に置き換えれば、新聞雑誌で発表したり、カタログにして販売したりするのに便利なだけでなく、文字通りの意味でも比喩的にも作品を見る位置や方向を定め、自分たちの彫刻に視線を集めることができる。目録を作り、永久に記録したいという欲求は、都合の良い味方として写真を歓迎した。ほとんどのものは動かないが、写真の鮮明さやスピード感でこれを相殺することができる。何でも写真にできるし、写真にされていないものはない。写真は3次元の空間を理解しやすい平面に変える。写真はあらゆる点で商業や産業の成長に貢献するだけでなく、アーティストにもまたとない機会を提供する。しかし、立体を平面に置き換えることは、ものを簡単に理解できるイメージに変える(あるいは、変えたいと思う)ことであり、そこから新たな葛藤が生まれることになる。結局のところ、強い印象を与えるには確立された観点に勝るものはない。これはいうまでもなく写真の特性の一つであるが、被写体を再現しようと思えば、話はそれほどシンプルではない。写真を見れば被写体を理解できるというのは幻想にすぎない。被写体に向けられた独自の視点は、被写体(またはもの)をできるだけ完全な形で提示していると主張するが、この目的はほぼ達成が不可能なものである。被写体の下側や背面はどうなっているのか?あらゆる手法を駆使して被写体を隅々まで描き出すことに成功したとしても、光りの加減が違えばまた違って見えるはずである。このような疑念が一旦心を占めると、以前はあんなに簡単に理解できたはずのイメージが非常に抽象的な模造品にしか見えなくなる。こうなると、商品を売るため、あるいは説明を立証する機能を持つカタログのイメージは、さらに意味が分からないものになる。言うまでもなく、このような捉え方はこの種の「客観的な全体像」に期待されるものと相反しているという指摘は的を射ている。しかしながら、カタログなどの出版物においては、イメージに意味を与え全体的な構成を与えているのは文脈に他ならない。脚注、詳述、参照、記号は、情報の信憑性を担保するものである。ページの目立たないところに掲載されている、こうした“必ずしも必要ではないもの”が、出版物全体に具体性を持たせているように見える。イメージという物自体は人の想像を掻き立てるが、被写体の本質を表現しているかどうかは疑わしい。サザビーズやナーゲル・オークションなどのオークションハウスが出す綺麗なカタログには、可能な限り客観的・形式的なレイアウトが用いられている。カタログ写真が第一印象を裏切り、甚だしい矛盾を感じさせる理由の一つは、パソコンで編集した画像の技術的な完成度の高さにある。このような画像は気分を穏やかにし、見る人を格式の高い商品の美しさに没頭させる。見た目の美しさを重視した時点で既に、現実との矛盾を隠蔽するという選択がなされている。我々が目にする写真は、非常に客観的な表現に見えるが、それは被写体を実際よりも良いもの、価値の高いものに見せるために手を加えた結果である。色味をほんの少し豊かにして完璧な輝きを与えることで、古びた木材を正真正銘のアンティークに見せることができる。こうしたイメージは現実の被写体とかけ離れているというだけでなく、驚くほど多くを語る。脚注や「欠くことのできない」説明に彩られ、整然と並べられた、余白がほとんどない被写体のクローズアップには、この奇妙な性質が如実に表れている。「複製写真」とは実に適切な呼び方である。我々が目にする「複製」は、新しい住処を見つけるまでどこかに保管されているオリジナルが、確かに存在することを保証しているのである。このように述べると先ほどの考えに対し矛盾して聞こえるかもしれないが、これらのイメージは、3次元のものを2次元に落とし込み、情報を提供し、注意を喚起するという目標を達成している。その代わりに、完璧に磨き抜かれた窓が、姿を消したように感じられるのと同じく、イメージ自体は現実をそのまま映し出したものとして、我々の目には映らなくなる。言い換えると、カタログを見る時、我々は描かれているものしか見ていないのであって、イメージ自体は透明である(でなくてはならない)ということになる。カタログに実用性以外の何が求められるだろうか?この種の本を何の目的もなしに通読する人はいないといっていい(ページに掲載されているイメージが表しているものを心から愛し、興味を持っているなら別であるが)。この種の出版物の唯一の存在意義は、それが市場で果たしている役割にある。彼らは、イメージに写っているものが実在することの「証拠」なのである。