©Kenji Takahashi
対談 築地仁 × 金子隆一
時間を超えて問う「見ること」の意味
Text:Yumiko Kobayashi
Photo:Kenji Takahashi
構成:小林祐美子
写真:高橋健治
タカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルムにて、「写真像」の33年ぶりとなる個展を開催中の写真家・築地仁。1960年代半ばより一貫して被写体やコンセプトに頼ることを排し“写真にしかできないこと”へと真摯に向き合ってきた築地は、2015年に『写真像』(CAMERA WORKS)から30年ぶりとなる『写真』(日本写真企画)を刊行した。その書評の中で、写真史家であり『写真像』の編集にも携わった金子隆一はこう評する。“どのような写真表現の変容が歴史として積み重ねられていっても、またどのように現実の状況が変化することがあったとしても、変わらずに「写真そのもの」へとたどり着こうとする意志を持ち続け、実践し、成し遂げている”。次々と価値が移り変わる現代において、30年の間変わらずにある写真への思想はどのように築かれたのか。いま改めて、二人に当時から現在に至るまで、そして『写真像』に込められた思いを聞いた。
金子隆一(以下“RK”)まず1984年に刊行された『写真像』に至るまでの経緯をたどると、築地さんとは1976年に「方向量」の展覧会場で初めて会い、築地仁写真集『垂直状の、(領域)』を見たことが最初のきっかけです。そして1979年からCAMERA WORKS(*註)というグループで具体的なプロジェクトを一緒に始めました。
築地仁(以下“HT”)その頃はカメラ雑誌の黄金期で、CAMERA WORKSはその状況へ向けてのカウンターとして、自分たちが写真集の発行元になって納得する写真集を出そうという思いが発端でしたね。
RK 1970年代末はツァイト・フォト・サロンやフォト・ギャラリー・インターナショナルというオリジナルプリントを扱うギャラリーが始まった一方で、プリズムやCAMPといった自主ギャラリーはクローズして新しい方向性を模索するなど、写真を取り巻く環境が移行していた時期です。その中で自分たちの場をどう作るかを考えたとき、写真集をシリーズで出すことによって自分たちの立ち位置をプレゼンテーションしようというコンセプトが生まれました。当初は最低10人くらいのシリーズを作ろうと計画していましたが、全員が納得する人選が決められないまま時間が経ち、「とりあえず」発行し始めたのが『camera works tokyo』です。初めは読み物を中心にやろうといっていたのですが、築地さんが海を撮った「海光」を発表したり、翻訳を中心にした資料集をまとめたりと、やりたいことを少しずつ『camera works tokyo』で実現していましたが、常に「本番」感はないままでした。冊子や展示での発表の場は確保していましたが、当初の意識は解体してしまい、それにしびれを切らした築地さんが「写真集を作りたい」と訴えたことから、デザイナーの菊地信義さんと3人で『写真像』の制作が始まりました。築地さんと菊地さんはいつ知り合ったのですか?
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HT 高校時代の先輩が多摩美術大学に進学して菊地さんと友人だったことで、19歳のときに初めてお会いしました。写真を見せるといろんなことをいわれたのですが、みんな当たっていたので驚きましたね。そのときに「日本の写真家は被写体主義だけれど、そうじゃない新しい写真を撮るなら教えてやる」といわれて、それから毎月ベタ焼きを持って寺子屋のように通っていました。「いままでにない写真をどう撮るか」「写真を思想としてやらなくてはいけない」というのが菊地さんの言葉でした。『写真像』はそういった写真的な知識、見方、考え方の集大成のひとつです。
RK 築地さんが持ってきたベタ焼きを、菊地さんの自宅兼事務所でセレクトするのを、月1回くらいで1年ほどかけてやっていましたね。僕は自分では写真を撮らないから、一人の写真家が写真を撮るプロセスに直接関わったのは貴重な体験でした。ベタ焼きを一緒に見るのは、一緒に写真を撮りに行くということとも根本的に違う。
HT 菊地さんと金子さんに会ったことは写真的な体験からいうととても大きかったです。「写真はこういうものだ」という意識が開かれていた。二人のインテリジェンスがいるから、毎回「そういう見方をするんだ」と僕はほとんど下を向いていましたね(笑)。ふたつの眼と考えがあって、その差異が面白く、私にとって視覚的な勉強の場でした。『写真像』はハッセルブラッドで計3,000本ほど撮ったのですが、二人がその中から29点しか選ばないことは疑問に思っていました。
RK セレクトを繰り返すうちに、築地さんがずっとやってきたことから違う世界へ行ってしまったと感じた瞬間があったんです。ならいままでセレクトした200枚を全部捨てて新しい3枚を生かすか、新しいものはとりあえず全部捨てるかしないと、写真集は作れない。でも写真家は行ってしまったら以前に戻って補うことは絶対にできないんですね。その線を引いたときに、こういう写真集を作るというベクトルが見えました。それでも、築地さんは延々撮ってくるんです。写真家はそういうものだと、そのときにわかりました。
HT 6×6という真四角に謎があるから、もっと違うものを撮りたいと思うんです。例えば4×5なら、もっと簡単に「撮れた」とわかるんです。2015年に新しい写真集を作ったとき、なぜ30年も作らなかったのかと聞かれましたが、『写真像』以上のものができないからです。いま6×6をやるならカラーで、デジタルで撮るしかないですね。
写真集『写真像』(1984年)より
RK 真四角の魅力という話が出ましたが、6×6のカメラを意識的に持ったのはいつですか?
HT 「海光」で海を撮ったときですね。
RK なぜ海を撮るのに6×6だったんでしょう?
HT ハリー・キャラハンの『Water’s Edge』からの影響です。あとはドイツの新即物主義や、ロシアのロトチェンコ、ウォーカー・エヴァンスが6×6、35mm、4×5、8×10とフォーマットを変えて撮っていたのにも影響を受けましたが、カメラが仕事を規定すると知ったのはキャラハンがきっかけでした。あとは中学生のときに写真の研究授業でボルタ判というフィルムを使って、覗くと四角い画面のカメラを使ったことがあるのですが、あのボルタ判は原点として残っていますね。それとダイアン・アーバスは同じ被写体を35mmと6×6の両方で撮っていて、その2冊の写真集を並べて見ると6×6はものすごく深く入っていけるんです。6×6にはそういうエキスというか、効果があるなと感じました。
RK 「写真像」を撮る前の「譜」と「風景の波動」もスクエアでしたね。二眼レフ、6×6、そして中学生のときのボルタ判カメラの真四角。それらは何か結びついていますか?
HT 6×6は子供の目のようなもので、見つめること、撮ることの原点です。撮るときも見るときも、中心に入っていけて、画面の中に入って集中的に物を見ることができる。35mmはもっと動きや身体性があるからアングルを変えたりできるけれど、6×6は素朴に写ってしまうし、表現の方法がひとつかふたつしかない。自分にとって6×6で撮ることは一番大事な原点、座標みたいなものです。縦長や横長とは全然違って作画的には撮りにくいけれど、練習問題を解くように作品を作ることが好きだったんですね。
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RK 「練習問題を解く」という表現に表れているように、築地さん写真の撮り方には自分で問題を設定して、解いてみて、簡単に解けてつまらないからやめようとか、なかなか解けないからやってみようとか、そういうプロセスがありますよね。
HT 写真を撮る行為は実験が面白いんです。四角とは何かとか、いまある思考を実験する。そして一回撮って見て面白くなかったら陳腐になるからやめるけれど、世界中が陳腐なものばかりだから静かに挫折していましたね。沈思黙考して、なぜ撮れないのかと考えていました。でも写真史を見ると、写真家はそういう問題をみんな解決しているんです。ダイアン・アーバスの写真はすごく無理をしているように見えるけれど、本当はただこれを撮りたい!と思うものを撮っている。それを見たときに、僕の写真なんてまだスケッチだなと思って、やり続けたいと思いましたね。
RK 後に写真集『Water’s Edge』に収められる写真を含めたキャラハンの展覧会「CITY」が77年にペンタックス・ギャラリーで開催されたとき、その展評を書いたのですが、そこにも「最も写真機的な6×6判二眼レフ」という書き方をしました。けれどキャラハンの写真と比べると「写真像」の方がいっていることが数段複雑です。それは年齢の問題、つまりキャラハンは当時60くらいの大御所であり、築地さんは30代。ある程度やってきた結果として出しているのか、これからやっていくプロセスの中でどれだけ硬質なものを作れるかという課題を抱えての、one of themとして出しているのかの違いでもあります。
築地仁「写真像」展示風景 タカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルム 2017年2月25日-4月1日
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HT 写真において、トポス・場所の問題は重要ですが、「写真像」では消滅してしまう場所を撮っています。写真集や展示では、光の質が変わっていくのを見ていくと面白いと思う。例えば写真集の2番目の写真(写真下)は水滴が写っていますが、その光の反射や、背景に光はどう差すのかとか、自分にとっての光の問題が全部に写っています。風景が変わることや、なくなること、特に光は一瞬でなくなってしまう。そういったことを意識して撮っていました。
Hitoshi Tsukiji "Shashinzo", 1984, gelatin silver print 24.9 x 24.8 cm © Hitoshi Tsukiji
Courtesy of Taka Ishii Gallery Photography / Film
RK この「写真像」のシリーズにはいろんなものが写っているけれど、結局行き着くところは写真なんですよね。だからこそ「写真像」というタイトルに落とし込まれている。写真の一番プリミティブな、写真が写真であることの意味は、セレクトする上で大きかったですね。写真集の最後の旭橋の写真(写真下)は僕も築地さんも気に入って最後にしようと決めたのですが、印刷のときに、少しだけブレていることに気が付いたんです。ほかは完璧にピントが合っているのに。でも菊地さんが「製版するときに工夫すればちょっと盛り上がって面白いから大丈夫」とうけあって、最後の写真にすることは揺るがなかったんですよね。
Hitoshi Tsukiji "Shashinzo", 1984, gelatin silver print 25 x 24.9 cm © Hitoshi Tsukiji
Courtesy of Taka Ishii Gallery Photography / Film
HT いいわけだけれど、この写真の左側に小林多喜二の『蟹工船』のモチーフの缶工場があって、地響きがするようなものすごい騒音だったんです(笑)。
RK 久しぶりにこのタカ・イシイギャラリーでの展示構成を見ると、最初の4、5点はいきなりノックアウトするような構成をしたんだなと感じました。そこから各論をやっていって、途中は優しくて普通に写真を見ていくことができるんですが、最後、いままで美味しいと思って食べていたものが全く違うとんでもないもので、とんでもない場所への入り口でしかないんだよ、という感じの終わり方だなと。写真集とは違う形で見ることで流れをすごく感じました。
HT 今回の展示空間は雑なものが全部削ぎ落とされて見えて、この場所でできたことにはとても感謝しています。オリジナルの写真を見られるようになったのはつい最近のことで、写真集で見るのとプリントで見るのとは全く違う。当時は写真というメディアが新しくて新鮮で、金子さんも僕も写真集はものすごく見ていましたが、オリジナルの写真を見ると写り方が違ってまた面白い。写真家ですから見ることに関しては突き詰めなければいけないと思っています。一貫しているのは、情報を撮っているわけではなく、撮ることによって自分が見たことの意味を確かめようとしているんです。
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*註
CAMERA WORKS:写真史家・金子隆一、写真家・島尾伸三、谷口雅、築地仁によって1979年に設立。1979~1995年に写真同人誌『camera works tokyo』を企画、編集、発行した。1981年には、御茶ノ水にあったマンションの一室を一時的にギャラリーに改装し、連続写真展「CAMERA WORKS EXHIBITION」を企画開催。
写真展
「写真像」
会場|タカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルム
東京都港区六本木5-17-1 AXISビル 2F
会期|2017年2月25日(土) - 4月1日(土)
時間|11:00 - 19:00
休廊日|日月曜・祝祭日
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作品集
「写真像」
作家|築地 仁
仕様|スリップケース入りハードカバー
ページ|61ページ
サイズ|250 x 250 mm
出版社|CAMERA WORKS
発行年|1984年
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築地仁(Hitoshi Tsukiji)
1947年神奈川県生まれ。写真を独学で始め、装丁家・菊地信義に写真の表現と思考の方法を学ぶ。1960年代半ばより都市を舞台に、抒情性を排した鋭敏な眼差しで写真表現の本質を探究。主な個展に「方向量」フォト・ギャラリー・プリズム(東京、1976年)、「写真像」ツァイト・フォト・サロン(東京、1984年)、「垂直状の、(領域)」Mole(東京、1992年)、「築地仁の現在<いま・なぜ・ここに> 1974-1998」写大ギャラリー(東京、1998年)など。主なグループ展に「風景の波動」フォト・ギャラリー・プリズム(東京、1977年)、「モノ・カオ・反物語-モダニズム再考」東京都写真美術館(東京、1995年)など。主な写真集に『垂直状の、(領域)』(自費出版、1975年)、『写真像』(CAMERA WORKS刊、1984年)、『築地仁 写真』(日本写真企画刊、2015年)など。主な受賞に日本写真協会新人賞(「写真像」により、1985年)など。作品の主な収蔵先に東京国立近代美術館、東京都写真美術館、川崎市民ミュージアム、国際交流基金、プリンストン大学など。
金子隆一(Ryuichi Kaneko)
1948年生まれ。写真評論家、写真史家、写真集コレクター。本業は僧侶。立正大学文学部卒業。元東京都写真美術館学芸員。武蔵野美術大学非常勤講師。日本写真史、特に日本の芸術写真(ピクトリアリスム)を専門とし、東京都写真美術館の企画展はもちろん、国内のさまざまな写真展を企画監修。主な著書として、日本の写真集の黄金時代をアーカイブした『日本写真集史1956-1986』(I.ヴァルタニアンと共著、赤々舎刊、2009年)などがある。